9月、一浪して大学に入った私は、20歳を迎えた。 実は、高校の修学旅行で友達とこっそり晩酌をしていたから、酒は飲めないわけではなかったが、堂々と隠れずに酒を飲める歳になった。
「綾乃ちゃん、昨日誕生日だったんだね。」
土・日に休めないイベント関係の社員は、通常、ウイークデーに休みをとる。 月川は毎週火曜日に休みを取っていた。 水曜日の午後、大学の授業を終えて横浜の支店に行った私に月川が話しかけてきた。
「ああ、はい。」
「ごめんね、昨日、忙しくて電話できなかった。」
月川は今度の火曜日は自分の母親を病院に連れて行くために朝から千葉の実家に行くと言っていた。
「良いんです、別に。 それより、お母さん大丈夫でしたか?」
「ああ、昨日のは月に一回の薬をもらいに行く日でね。 父が用事で出かけなきゃなかったから、僕が代行だったんだ。 得にどうということじゃなくて、年を取ると、血圧が高くなったりするからね。」
月川の母親の話に話題を変えたものの、私は月川が私の誕生日を知っていたことが嬉しかった。
「今日、仕事終わったら、駅前で食事でもしよう。 お祝いにご馳走するよ。」
「そんな、気を使わないでください。」
「いいのいいの、僕も何かおいしいものが食べたい気分だから。」
その日の夜、私は月川に連れられて、横浜駅からほど近い、小さな民家でやっているイタリア料理の店で食事をした。
「月川さん、久しぶりですね。 去年の6月以来じゃないですか? あれきり顔を見ないので心配していたんですよ。 お元気でしたか?」
店に入ると、オーナーらしき白髪の女性が月川に話しかけてきた。
「ご無沙汰していてすみません。 色々ごたごたしてたもので。 話は聞いていると思いますが・・・。」
「この間、里美さんから伺いました。大変でしたね。」
「里美、来たんですか?」
「ええ、同僚の先生のお誕生日に、他の先生方と数人で。」
「そうですか、元気でやっているんですね。」
月川とこの女性が誰の話をしているのか、私にはすぐに分かった。 里美というのは月川の元婚約者だったのだろう。 そして二人はこの店が好きで、昔は良く一緒に来ていたのだろう。
月川は、二人の話を静かに聞いていた私を、この女性に紹介してくれた。
もう、70歳近くになるのだろうか、この白髪の女性は遅れて厨房から出てきた男性、きっとこの女性の旦那さんで、この店のシェフだろう、この男性とともに、私に挨拶をした。
このレストランは月川が横浜に引っ越してきて偶然見つけてから十数年来の、月川にとって“隠れ家”のような存在だと言った。
「月川さんがここに連れていらっしゃるなんて、あなたはとても特別な方なのね。 お目にかかれて嬉しいわ。 ゆっくりなさってくださいね。」
穏やかなソプラノの声でこう言うと、この女性は新たに店に入ってきたカップルの方へと歩いて行った。
“特別な方・・・”という言葉の余韻を残しながら、私の誕生日のディナーは始まった。
「ごめんね、僕は車だからお酒は飲めないけど、綾乃ちゃんはワインでも飲むかい?」
「えっ、月川さんは全くお酒が飲めないと聞きましたけど?」
「ああ、あんまり強くはないよ。 よほどのことが無いと飲みたいと思わないしね。 でも、ワイン一杯くらいは大丈夫。 会社の連中と飲みに行くと皆酒豪だから、なかなか帰してもらえないでしょ? かえって飲めないことにしておくと終電に間に合うように帰れるしね。」
月川は茶目っ気たっぷりに、飲み会でのからくりを話した。
昨日は、アパートで迎えた一人きりの誕生日だった。 でも、今日は、一日遅れの幸せ一杯の夜だった。 これまで何度か、オフィスの傍の定食屋で月川と食事をしたことはあったが、今回のシチュエーションは格別だった。 実際、緊張していて、あの時のパスタの味はあまり覚えていない。 でも、このイタリアンレストランは私のお気に入りになり、後に月川と私にとって多くの節目の舞台となった。 そして・・・私が唯一声を出して泣くことのできる場所となった。
快速電車は時間通り上野駅へと滑り込んだ。
「綾乃ちゃん、昨日誕生日だったんだね。」
土・日に休めないイベント関係の社員は、通常、ウイークデーに休みをとる。 月川は毎週火曜日に休みを取っていた。 水曜日の午後、大学の授業を終えて横浜の支店に行った私に月川が話しかけてきた。
「ああ、はい。」
「ごめんね、昨日、忙しくて電話できなかった。」
月川は今度の火曜日は自分の母親を病院に連れて行くために朝から千葉の実家に行くと言っていた。
「良いんです、別に。 それより、お母さん大丈夫でしたか?」
「ああ、昨日のは月に一回の薬をもらいに行く日でね。 父が用事で出かけなきゃなかったから、僕が代行だったんだ。 得にどうということじゃなくて、年を取ると、血圧が高くなったりするからね。」
月川の母親の話に話題を変えたものの、私は月川が私の誕生日を知っていたことが嬉しかった。
「今日、仕事終わったら、駅前で食事でもしよう。 お祝いにご馳走するよ。」
「そんな、気を使わないでください。」
「いいのいいの、僕も何かおいしいものが食べたい気分だから。」
その日の夜、私は月川に連れられて、横浜駅からほど近い、小さな民家でやっているイタリア料理の店で食事をした。
「月川さん、久しぶりですね。 去年の6月以来じゃないですか? あれきり顔を見ないので心配していたんですよ。 お元気でしたか?」
店に入ると、オーナーらしき白髪の女性が月川に話しかけてきた。
「ご無沙汰していてすみません。 色々ごたごたしてたもので。 話は聞いていると思いますが・・・。」
「この間、里美さんから伺いました。大変でしたね。」
「里美、来たんですか?」
「ええ、同僚の先生のお誕生日に、他の先生方と数人で。」
「そうですか、元気でやっているんですね。」
月川とこの女性が誰の話をしているのか、私にはすぐに分かった。 里美というのは月川の元婚約者だったのだろう。 そして二人はこの店が好きで、昔は良く一緒に来ていたのだろう。
月川は、二人の話を静かに聞いていた私を、この女性に紹介してくれた。
もう、70歳近くになるのだろうか、この白髪の女性は遅れて厨房から出てきた男性、きっとこの女性の旦那さんで、この店のシェフだろう、この男性とともに、私に挨拶をした。
このレストランは月川が横浜に引っ越してきて偶然見つけてから十数年来の、月川にとって“隠れ家”のような存在だと言った。
「月川さんがここに連れていらっしゃるなんて、あなたはとても特別な方なのね。 お目にかかれて嬉しいわ。 ゆっくりなさってくださいね。」
穏やかなソプラノの声でこう言うと、この女性は新たに店に入ってきたカップルの方へと歩いて行った。
“特別な方・・・”という言葉の余韻を残しながら、私の誕生日のディナーは始まった。
「ごめんね、僕は車だからお酒は飲めないけど、綾乃ちゃんはワインでも飲むかい?」
「えっ、月川さんは全くお酒が飲めないと聞きましたけど?」
「ああ、あんまり強くはないよ。 よほどのことが無いと飲みたいと思わないしね。 でも、ワイン一杯くらいは大丈夫。 会社の連中と飲みに行くと皆酒豪だから、なかなか帰してもらえないでしょ? かえって飲めないことにしておくと終電に間に合うように帰れるしね。」
月川は茶目っ気たっぷりに、飲み会でのからくりを話した。
昨日は、アパートで迎えた一人きりの誕生日だった。 でも、今日は、一日遅れの幸せ一杯の夜だった。 これまで何度か、オフィスの傍の定食屋で月川と食事をしたことはあったが、今回のシチュエーションは格別だった。 実際、緊張していて、あの時のパスタの味はあまり覚えていない。 でも、このイタリアンレストランは私のお気に入りになり、後に月川と私にとって多くの節目の舞台となった。 そして・・・私が唯一声を出して泣くことのできる場所となった。
快速電車は時間通り上野駅へと滑り込んだ。
月川の優しい手が愛情に満ちた手になって私に触れるようになったのは、いつの頃からだったろう。 初めて私が司会をしたあの日が始まりだった? いや、あの時の月川はただ緊張していた若いアルバイトを励ましただけだった。 そして、私が月川の手を“魔法の手”と言ったから、あの現場の後も、月川は同じように私の頭を撫でてくれたのだ。
唯一つ、変わったことといえば、きっと私が月川を異性として意識し始めたことだろう。 月川との現場が楽しくなり、もっと一緒に仕事をしたくなり、そして、気がつくといつも私の視線は月川を探していた。 勿論、私は自分から告白するなどという積極性は持ち合わせていなかったから、ただ月川を100%完璧にサポートすることで愛情を表現するしかなかった。 そして、私のこの行為は、ケイエス・プランニングでの私の仕事の評価を高めていき、大学卒業後の就職を打診されるに至ったのである。
確かにケイエス・プランニングのようなイベント大手の会社から、それもまだ学生のうちに卒業後の就職をオファーされるのは嬉しかった。 でも、何より嬉しかったのは、これから先もずっと月川の傍にいられるということだった。 たとえ仕事上の上司と部下、もしくは同僚という関係でもいい、月川をずっと見ていたかった。 あの時の私は、もし、月川が他の女性を選んで結婚してしまったら・・・等ということはさらさら思いもしなかった。 今になって考えれば、月川は当時28歳、当時の男性の結婚適齢期になっていたのだ。
「お前、いつまでも終わった恋愛のこと考えてないで、次をみつけろよ。」
月川の性格をなんだかんだ言いながらも、結局は月川の仕事を認め、部下としてかわいがっていた桑田専務はよく月川の将来を心配してこう言った。
「いいんですよ、女はもうしばらくいいです。」
飲むとよく絡む桑田専務を月川はいつもこうかわしていた。めったには無い飲み会の席で、ウーロン茶を片手に静かに月川の横に座っていた私は、この月川の台詞に、月川にまだ誰も他に意中の相手がいないことを確認し、安堵したものだった。
そんな私の表情を見逃さなかった、営業部長の勝田はよく私をからかった。
「谷口、お前、しょうがないから月川のプライベートも面倒みてやれよ。 仕事だけじゃなくてさぁ。」
勝田は酒の席でふざけながらこう言った。 でも、勝田の目は実は真剣だった。
「お前ぐらいしかいないだろう、谷口、変態月川の傍にいてずっと一緒に仕事していられるのはさぁ・・・。」
「何、言ってるんですか、勝田さん。 仕事で面倒見てもらってるのは私のほうですよ。」
私はさりげなく勝田をかわした。 でも、この勝田が実は、私と月川を結びつけたキューピットだった。
車内放送がなり響いた。
「お客様で、谷口様。 谷口綾乃様、おいでになりましたら8号車車掌室までお越しください。」
嫌な予感が私を襲った。 あわてて立ち上がり、私は車掌室へ向かった。 上野駅まではあと数十分だった。
「谷口です。」
車掌室に着くと、車掌は私に車内電話を差し出した。
「お電話が入っています。」
恐る恐る電話にでると、勝田の声が聞こえてきた。 上野までの最後の山道を走っていたせいで、電話の電波状況は最悪だった。
「谷口・・・・・・・・・もうすぐ着く・・・・・・・いいか、上野駅からタクシーを使え。 道路はそんなに混んでい・・・・ない。」
途切れ途切れの勝田の声。 私は震えた声で聞いた。
「勝田さん、月川さんは? 月川さんは大丈夫なんですか? 今どんな・・・・・。」
ここで勝田との電話は完全に途切れた。
「すみません、トンネルに入ったようです。」
私は車掌に礼を言うと、デッキに出た。 自分の席まで戻る気力はなかった。 どうせあと数十分、ここで待とう。 そしてドアが開いたら一目散にタクシー乗り場まで駆け抜けよう。
唯一つ、変わったことといえば、きっと私が月川を異性として意識し始めたことだろう。 月川との現場が楽しくなり、もっと一緒に仕事をしたくなり、そして、気がつくといつも私の視線は月川を探していた。 勿論、私は自分から告白するなどという積極性は持ち合わせていなかったから、ただ月川を100%完璧にサポートすることで愛情を表現するしかなかった。 そして、私のこの行為は、ケイエス・プランニングでの私の仕事の評価を高めていき、大学卒業後の就職を打診されるに至ったのである。
確かにケイエス・プランニングのようなイベント大手の会社から、それもまだ学生のうちに卒業後の就職をオファーされるのは嬉しかった。 でも、何より嬉しかったのは、これから先もずっと月川の傍にいられるということだった。 たとえ仕事上の上司と部下、もしくは同僚という関係でもいい、月川をずっと見ていたかった。 あの時の私は、もし、月川が他の女性を選んで結婚してしまったら・・・等ということはさらさら思いもしなかった。 今になって考えれば、月川は当時28歳、当時の男性の結婚適齢期になっていたのだ。
「お前、いつまでも終わった恋愛のこと考えてないで、次をみつけろよ。」
月川の性格をなんだかんだ言いながらも、結局は月川の仕事を認め、部下としてかわいがっていた桑田専務はよく月川の将来を心配してこう言った。
「いいんですよ、女はもうしばらくいいです。」
飲むとよく絡む桑田専務を月川はいつもこうかわしていた。めったには無い飲み会の席で、ウーロン茶を片手に静かに月川の横に座っていた私は、この月川の台詞に、月川にまだ誰も他に意中の相手がいないことを確認し、安堵したものだった。
そんな私の表情を見逃さなかった、営業部長の勝田はよく私をからかった。
「谷口、お前、しょうがないから月川のプライベートも面倒みてやれよ。 仕事だけじゃなくてさぁ。」
勝田は酒の席でふざけながらこう言った。 でも、勝田の目は実は真剣だった。
「お前ぐらいしかいないだろう、谷口、変態月川の傍にいてずっと一緒に仕事していられるのはさぁ・・・。」
「何、言ってるんですか、勝田さん。 仕事で面倒見てもらってるのは私のほうですよ。」
私はさりげなく勝田をかわした。 でも、この勝田が実は、私と月川を結びつけたキューピットだった。
車内放送がなり響いた。
「お客様で、谷口様。 谷口綾乃様、おいでになりましたら8号車車掌室までお越しください。」
嫌な予感が私を襲った。 あわてて立ち上がり、私は車掌室へ向かった。 上野駅まではあと数十分だった。
「谷口です。」
車掌室に着くと、車掌は私に車内電話を差し出した。
「お電話が入っています。」
恐る恐る電話にでると、勝田の声が聞こえてきた。 上野までの最後の山道を走っていたせいで、電話の電波状況は最悪だった。
「谷口・・・・・・・・・もうすぐ着く・・・・・・・いいか、上野駅からタクシーを使え。 道路はそんなに混んでい・・・・ない。」
途切れ途切れの勝田の声。 私は震えた声で聞いた。
「勝田さん、月川さんは? 月川さんは大丈夫なんですか? 今どんな・・・・・。」
ここで勝田との電話は完全に途切れた。
「すみません、トンネルに入ったようです。」
私は車掌に礼を言うと、デッキに出た。 自分の席まで戻る気力はなかった。 どうせあと数十分、ここで待とう。 そしてドアが開いたら一目散にタクシー乗り場まで駆け抜けよう。
東京の大学に通い始めて初めての夏休み。 田舎の両親には申し訳ないと思ったけれど、私はお盆の帰省時期を除いて、東京でアルバイトを続けた。 夏休みに入る前、月川は私に横浜の支店でオフィスワークのアシスタントをしてくれないかと頼んできた。
「現場のレイアウトを考えたり、クライアントとの打ち合わせや、時々図面も引いてもらうから。 夏休みは、子供向けのイベントも入ってくるから、結構忙しくてね。 たまに徹夜になったりもするんだ。 あ、綾乃ちゃんは徹夜することは無いけど。」
大学で空間デザインを勉強していた私は現場以外の机上の仕事にも魅力を感じていた。 私と同じくデザイン科を卒業していた月川とも話が合ったし、月川から実践を学ぶにはいいチャンスだと思った。 何より、夏休み中、現場のある日以外にも月川と仕事ができるのが嬉しかった。 この頃、私は既に小さな現場は現場のリーダーとして後輩を連れて仕事をするようになっていたから、月川といつも一緒の現場になるとは限らなかった。 そんな矢先の月川からの誘いを断る理由は何も無かった。
「お前も、とうとう月川の毒牙に引っかかったな。」
アルバイト先の面々は、口々にそう言った。
「あいつさ、あの性格だから、アシスタント付けてもすぐやめられちゃうんだよ。 あの、うるさいくらい几帳面な性格はね・・・ついていくの大変だよ。 ま、過去に長続きしたのはあいつの元婚約者くらいだったな。」
私は思わず桑田専務に聞き返した。
「婚約者って、月川さんのアシスタントをしていたんですか?」
「そうだよ、彼女も学生時代にうちで殺陣師をしてて、その後、月川が自分のアシスタントにしたんだ。」
「女性の殺陣師?」
「そう、反射神経もスタイルも良くてな。 現場で一緒に仕事するうちに月川、彼女に惚れちゃったんだよ。 あ、月川も殺陣師出身だからね。」
月川が殺陣をやっていたことは本人から聞いていた。 元婚約者がケイエス・プランニングでアルバイトをしていたことも聞いていた。 でも、月川のアシスタントだったということは初耳だった。
「すごく活発な人だったんですね。」
「活発だけど気も強かったな。 現場の口論はしょっちゅうでな。 だから、付き合い始めてすぐに月川は彼女にバイト辞めさせたんだ。 ま、現場の口論をプライベートに引きずりたくなかったんだろう。 始まっちゃうとお互い全く引かなかったからな。」
桑田は、だから今回、月川がアシスタントとして私を起用したのは正解かもしれないと言った。 元婚約者と正反対の性格と、殆ど運動神経を持ち合わせていない私は、とても活発で積極的で、自分の意見を押し通すような性格では無かったから、月川のあの几帳面な性格がいやでなければ、もしかしたら長続きするかも知れないと思ったようだ。
確かに、月川との仕事はとてもスムーズに進んだ。月川は私のコンディションにとても気を配ってくれた。 私にとって、月川の几帳面な性格は、かえって、彼のパターンを先読みするには好都合だった。 私は月川が何を考え、どうしたいのかをある程度予測できた。 桑田専務から言われていた月川の欠点もうまくカバーできた。
「月川は人にものを頼むのが下手なんだよ。 自分で気がついてやってほしい・・・って良く昔はバイトの文句言ってたけど、バイトなんだからそれは無理だよなぁ。 だから、一人で勝手にさっさとやっちゃって、バイトに嫌われて辞められちゃうんだよ。」
それは、私もアルバイトを始めた当初から気がついていた。 でも、私にはそんな月川の性格は全く問題なかった。 物事の先を読む。 それは、私の母親がいつも父親に対してやっていたことだったから。
「気を使うんじゃないのよ、気を配るの。 そうすれば、人との関係はスムーズにいくから。」
母は私に良くこう言った。 それを幼い頃から実践してきた私には、
「やりづらい。」
と皆が言っていた月川との仕事が、むしろ、“あ・うん”の呼吸でできるのが嬉しかった。
でも、気がかりは勿論あった。 それは私が不在、もしくは、違う現場や、違う打ち合わせで月川を一人にした時だった。 案の定、月川は同僚にも他のアルバイトにも仕事の手伝いを頼まず、真夜中まで、時には徹夜で仕事をすることがあった。
「そんなの、明日でいいじゃない・・・って言われるのいやなんだよね。 明日は明日でまた仕事が出てくるから、今日できることは今日やっておかないと。」
月川の口癖だった。 時々、早朝のオフィスのソファーで死んだように眠っている月川の寝顔を見ながら、私は月川を一人残して現場から直帰した自分を時々後悔したものだった。
そんな月川の性格が今回も災いしたのだろうか・・・。 ならば、私のせいだ・・・。 月川の性格を知っていながら、彼を一人残してきた、私のせいだ・・・。 3月。 春休みはイベントのシーズンでもあり、仕事はどんどん増えていた。 たった3日とは言え、きっと月川は私のいない3日間を、どうにか自分ひとりでやり通そうと思ったに違いない。 確か、この3日間の現場は、ある企業の総合グランドに設営された移動遊園地だったはずだ。 しかも、約10人近くのアルバイトがおり、もう一人、正社員がヘルプで入っていたはずである。 移動遊園地には、ミニSL, バッテリーで動くミニカー、トランポリン、金魚すくいなどの出店が多数あり、そのセッティングは全て私が旅行にでる前日に完了していたはずである。 月川が困らないように、事前に何度もイベント内容を確認し、抜かりが無いようにしてきたはずなのに、どうして・・・。 私の頭の中では、現場のレイアウトの中で、何か危険なものは無かったかを必死で探していた。 もしかして、交通事故? でも、桑田専務は交通事故とは言わなかった。 じゃ、何・・・。
頭の中の混乱とともに、私の不安と焦りは極限に達していた。 月川の手に触れたかった。 月川のごつごつした肉付きの良い、暖かい手で頭を撫でて欲しかった。 いつものように・・・。 いつも私の緊張や不安で震えた心は彼の手の温もりで落ち着きを取り戻した。 私の頭に触れた月川の手に自分の手を重ねる。 月川の手の感触が私の頭と手を通って心に達するまで、じっと動かずに、目を閉じたまま動かずにいると、月川の強く・優しく・揺るぎのない愛情を体全体に感じることができた。 体がふわっと宙に浮くような、実際触れているのは頭と手だけなのに、私の体全てを包み込んでくれるような感じがした。
たった2日前、私の頭を撫でてくれた月川の手。 魔法の手。 今、私は何年も私に触れ続けた彼の手が死ぬほど恋しい。 「月川さん、今すぐあなたの手に触れたい・・・。」
「現場のレイアウトを考えたり、クライアントとの打ち合わせや、時々図面も引いてもらうから。 夏休みは、子供向けのイベントも入ってくるから、結構忙しくてね。 たまに徹夜になったりもするんだ。 あ、綾乃ちゃんは徹夜することは無いけど。」
大学で空間デザインを勉強していた私は現場以外の机上の仕事にも魅力を感じていた。 私と同じくデザイン科を卒業していた月川とも話が合ったし、月川から実践を学ぶにはいいチャンスだと思った。 何より、夏休み中、現場のある日以外にも月川と仕事ができるのが嬉しかった。 この頃、私は既に小さな現場は現場のリーダーとして後輩を連れて仕事をするようになっていたから、月川といつも一緒の現場になるとは限らなかった。 そんな矢先の月川からの誘いを断る理由は何も無かった。
「お前も、とうとう月川の毒牙に引っかかったな。」
アルバイト先の面々は、口々にそう言った。
「あいつさ、あの性格だから、アシスタント付けてもすぐやめられちゃうんだよ。 あの、うるさいくらい几帳面な性格はね・・・ついていくの大変だよ。 ま、過去に長続きしたのはあいつの元婚約者くらいだったな。」
私は思わず桑田専務に聞き返した。
「婚約者って、月川さんのアシスタントをしていたんですか?」
「そうだよ、彼女も学生時代にうちで殺陣師をしてて、その後、月川が自分のアシスタントにしたんだ。」
「女性の殺陣師?」
「そう、反射神経もスタイルも良くてな。 現場で一緒に仕事するうちに月川、彼女に惚れちゃったんだよ。 あ、月川も殺陣師出身だからね。」
月川が殺陣をやっていたことは本人から聞いていた。 元婚約者がケイエス・プランニングでアルバイトをしていたことも聞いていた。 でも、月川のアシスタントだったということは初耳だった。
「すごく活発な人だったんですね。」
「活発だけど気も強かったな。 現場の口論はしょっちゅうでな。 だから、付き合い始めてすぐに月川は彼女にバイト辞めさせたんだ。 ま、現場の口論をプライベートに引きずりたくなかったんだろう。 始まっちゃうとお互い全く引かなかったからな。」
桑田は、だから今回、月川がアシスタントとして私を起用したのは正解かもしれないと言った。 元婚約者と正反対の性格と、殆ど運動神経を持ち合わせていない私は、とても活発で積極的で、自分の意見を押し通すような性格では無かったから、月川のあの几帳面な性格がいやでなければ、もしかしたら長続きするかも知れないと思ったようだ。
確かに、月川との仕事はとてもスムーズに進んだ。月川は私のコンディションにとても気を配ってくれた。 私にとって、月川の几帳面な性格は、かえって、彼のパターンを先読みするには好都合だった。 私は月川が何を考え、どうしたいのかをある程度予測できた。 桑田専務から言われていた月川の欠点もうまくカバーできた。
「月川は人にものを頼むのが下手なんだよ。 自分で気がついてやってほしい・・・って良く昔はバイトの文句言ってたけど、バイトなんだからそれは無理だよなぁ。 だから、一人で勝手にさっさとやっちゃって、バイトに嫌われて辞められちゃうんだよ。」
それは、私もアルバイトを始めた当初から気がついていた。 でも、私にはそんな月川の性格は全く問題なかった。 物事の先を読む。 それは、私の母親がいつも父親に対してやっていたことだったから。
「気を使うんじゃないのよ、気を配るの。 そうすれば、人との関係はスムーズにいくから。」
母は私に良くこう言った。 それを幼い頃から実践してきた私には、
「やりづらい。」
と皆が言っていた月川との仕事が、むしろ、“あ・うん”の呼吸でできるのが嬉しかった。
でも、気がかりは勿論あった。 それは私が不在、もしくは、違う現場や、違う打ち合わせで月川を一人にした時だった。 案の定、月川は同僚にも他のアルバイトにも仕事の手伝いを頼まず、真夜中まで、時には徹夜で仕事をすることがあった。
「そんなの、明日でいいじゃない・・・って言われるのいやなんだよね。 明日は明日でまた仕事が出てくるから、今日できることは今日やっておかないと。」
月川の口癖だった。 時々、早朝のオフィスのソファーで死んだように眠っている月川の寝顔を見ながら、私は月川を一人残して現場から直帰した自分を時々後悔したものだった。
そんな月川の性格が今回も災いしたのだろうか・・・。 ならば、私のせいだ・・・。 月川の性格を知っていながら、彼を一人残してきた、私のせいだ・・・。 3月。 春休みはイベントのシーズンでもあり、仕事はどんどん増えていた。 たった3日とは言え、きっと月川は私のいない3日間を、どうにか自分ひとりでやり通そうと思ったに違いない。 確か、この3日間の現場は、ある企業の総合グランドに設営された移動遊園地だったはずだ。 しかも、約10人近くのアルバイトがおり、もう一人、正社員がヘルプで入っていたはずである。 移動遊園地には、ミニSL, バッテリーで動くミニカー、トランポリン、金魚すくいなどの出店が多数あり、そのセッティングは全て私が旅行にでる前日に完了していたはずである。 月川が困らないように、事前に何度もイベント内容を確認し、抜かりが無いようにしてきたはずなのに、どうして・・・。 私の頭の中では、現場のレイアウトの中で、何か危険なものは無かったかを必死で探していた。 もしかして、交通事故? でも、桑田専務は交通事故とは言わなかった。 じゃ、何・・・。
頭の中の混乱とともに、私の不安と焦りは極限に達していた。 月川の手に触れたかった。 月川のごつごつした肉付きの良い、暖かい手で頭を撫でて欲しかった。 いつものように・・・。 いつも私の緊張や不安で震えた心は彼の手の温もりで落ち着きを取り戻した。 私の頭に触れた月川の手に自分の手を重ねる。 月川の手の感触が私の頭と手を通って心に達するまで、じっと動かずに、目を閉じたまま動かずにいると、月川の強く・優しく・揺るぎのない愛情を体全体に感じることができた。 体がふわっと宙に浮くような、実際触れているのは頭と手だけなのに、私の体全てを包み込んでくれるような感じがした。
たった2日前、私の頭を撫でてくれた月川の手。 魔法の手。 今、私は何年も私に触れ続けた彼の手が死ぬほど恋しい。 「月川さん、今すぐあなたの手に触れたい・・・。」
快速電車は順調に東京へ向かって走行を続け、ある駅で3分程停車した。 2人掛けの椅子を一人で使っていた私の横に、50歳位のビジネスマンらしき男性が座ろうとした。 私は少し窓の方へ座りなおした。 その瞬間、膝の上のハンドバックからキーホルダーが滑り落ちた。
「どうぞ。」
キーホルダーを拾ってくれたその男性の目が、一瞬、キーホルダーに付けられたネックレスに向けられた。
「キーホルダーにネックレス? 珍しいね。」
その男性はにこっと微笑むと、ネックレス付きのキーホルダーを私に手渡した。
この時、私は、夕方温泉に入る前に外したネックレスの存在をやっと思い出した。
馬の蹄鉄のネックレス。 月川の気持ちが一杯詰まった、初めて月川からもらったプレゼント。
月川が私の首にかけてくれて以来、一度も外したことが無かった。 それが、今日、温泉に浸かって黒ずんでしまうといやだからと、初めて外した・・・。 普通に考えれば、本当に些細なできことでも、今、月川が危篤だという現実を前に、私に猛烈な後悔の嵐を吹きつけた。
ネックレスを強く握り締めながら、私は祈った。 どうか月川が無事でありますように。 どうか、大したこと無かったよ・・・と皆が笑って私を迎えてくれますように。 どうか、どうか・・・。
私が月川と出会ってから2ヶ月後、ジューン・ブライドを夢見る女性達の数はピークだった。 6月唯一の大安吉日の日曜日。 ケイエス・プランニングの誇る大量の司会陣の数をもってしても、こなせないほどの結婚式の予約が入っていた。 この日曜日からさかのぼる事1週間前、私は桑田専務から司会の仕事を言い渡された。
「私がですか?」
びっくりする私に、桑田専務は軽く言い流す。
「もう結婚式の現場は何度もやってるだろ。 レストランウエディングだから、大丈夫。 これ、シナリオと進行表ね。 月川が一緒だから安心して。 あぁ、あと今週の水曜日の夜、新郎新婦と現場のレストランで最終の打ち合わせがあるから、月川と行って来て。 夜だから学校大丈夫でしょ?」
レストランウエディングは、以前、アシスタントで何度も経験していた。 司会の女性を見て、コツやリズムもなんとなくつかんでいた。 いつかは自分もやってみたいと憧れていたから、今回の話は嬉しい話ではあったが、さすがに緊張した。
「大丈夫? 結構緊張するほうなんだ。」
打ち合わせの後、口数の少ない私に月川が話しかけてきた。
「そりゃ、緊張しますよ。 ちょっと、怖いです。」
「君は頭が良いし、機転が利くから大丈夫。 何かあったら僕もフォローするから。」
月川は私の頭をゆっくり撫でた。 月川の手が私の頭に触れると、一瞬緊張が和らいだ。
本番当日。 花嫁より目立たないように、私は黒のノースリーブのワンピースを持参した。 セッティング終了後、着替えを済ませ、まだ人のいないレストランの司会席に立った。 マイク合わせはもう終わっている。 マイクのスイッチを入れ、ちょっと練習。 声の準備も万端だった。 司会席の向かいの壁は鏡張りになっていて、私の姿を映し出していた。 黒の、少し大きめに胸元の開いたワンピースにショートカット。 首にアクセントが必要だったかな・・・。 その時、
「胸元ちょっと寂しいね。」
私の背後から鏡をのぞきこんでいた月川は、私の気持ちを代弁してくれた。 そして次の瞬間、背中から胸元にふわっという風と感触が舞い降りた。 鏡に映った私の胸元には、金色の小さな馬の蹄鉄のネックレスが光っていた。
「馬の蹄鉄ってね、つけてる人を守ってくれるんだって。 知ってた?」
私の首にネックレスを付けてくれた月川のその手は、そっと私の両肩に触れ、鏡に映った月川の優しい瞳が私のちょっと不安げな視線と絡み合った。
「よし、お客さん入れるよ。 綾乃ちゃん、一杯楽しんでおいで。 後ろで見守ってるから。」
この頃、月川が呼ぶ私の名前は、“谷口さん”から“綾乃ちゃん”に代わっていた。
私は、ネックレスをギュッと握り締めた。 自然と緊張がほぐれ、司会者の顔になる。 やっぱり花束贈呈の時はもらい泣きしそうになったけれど、でも、楽しかった。
「お疲れ様。 すごく良かったね。」
宴の余韻に浸っていた私を目覚めさせたのは、月川の低いテノールのような声だった。
月川の声を聞き、緊張から解き放たれた私は、後ろの椅子に座り込んだ。
「なんか、緊張が取れたら、急に力が抜けました。 私、変なとこありませんでしたか?」
「全然問題なかったよ。 とっても良くできました。」
そう言って、月川はまた私の頭を撫でた。
「月川さんの手って、魔法の手みたい。」
「ん? どうして?」
「だって、月川さんに頭を撫でられると、すごくほっとするから。」
そう言ってしまって、私は、自分が赤面しているような気がした。
恥ずかしさを隠すように、私は首に手を掛け、ネックレスを外そうとした。 すると月川は言った、
「そのネックレス、綾乃ちゃんにあげるよ。 初司会祝い。」
「でも、こんな高価なもの・・・。」
私の言葉を聞き終わる前に、月川は片付けを始めた。
「さ、軽く片づけして戻るから、着替えておいで。」
心なしか、月川の頬も赤くなっているような気がした。
この時以来、月川からもらったネックレスはずっと私の胸元で優しい光を放っていた。 そう、今日、このネックレスを外す前までは・・・。
「どうぞ。」
キーホルダーを拾ってくれたその男性の目が、一瞬、キーホルダーに付けられたネックレスに向けられた。
「キーホルダーにネックレス? 珍しいね。」
その男性はにこっと微笑むと、ネックレス付きのキーホルダーを私に手渡した。
この時、私は、夕方温泉に入る前に外したネックレスの存在をやっと思い出した。
馬の蹄鉄のネックレス。 月川の気持ちが一杯詰まった、初めて月川からもらったプレゼント。
月川が私の首にかけてくれて以来、一度も外したことが無かった。 それが、今日、温泉に浸かって黒ずんでしまうといやだからと、初めて外した・・・。 普通に考えれば、本当に些細なできことでも、今、月川が危篤だという現実を前に、私に猛烈な後悔の嵐を吹きつけた。
ネックレスを強く握り締めながら、私は祈った。 どうか月川が無事でありますように。 どうか、大したこと無かったよ・・・と皆が笑って私を迎えてくれますように。 どうか、どうか・・・。
私が月川と出会ってから2ヶ月後、ジューン・ブライドを夢見る女性達の数はピークだった。 6月唯一の大安吉日の日曜日。 ケイエス・プランニングの誇る大量の司会陣の数をもってしても、こなせないほどの結婚式の予約が入っていた。 この日曜日からさかのぼる事1週間前、私は桑田専務から司会の仕事を言い渡された。
「私がですか?」
びっくりする私に、桑田専務は軽く言い流す。
「もう結婚式の現場は何度もやってるだろ。 レストランウエディングだから、大丈夫。 これ、シナリオと進行表ね。 月川が一緒だから安心して。 あぁ、あと今週の水曜日の夜、新郎新婦と現場のレストランで最終の打ち合わせがあるから、月川と行って来て。 夜だから学校大丈夫でしょ?」
レストランウエディングは、以前、アシスタントで何度も経験していた。 司会の女性を見て、コツやリズムもなんとなくつかんでいた。 いつかは自分もやってみたいと憧れていたから、今回の話は嬉しい話ではあったが、さすがに緊張した。
「大丈夫? 結構緊張するほうなんだ。」
打ち合わせの後、口数の少ない私に月川が話しかけてきた。
「そりゃ、緊張しますよ。 ちょっと、怖いです。」
「君は頭が良いし、機転が利くから大丈夫。 何かあったら僕もフォローするから。」
月川は私の頭をゆっくり撫でた。 月川の手が私の頭に触れると、一瞬緊張が和らいだ。
本番当日。 花嫁より目立たないように、私は黒のノースリーブのワンピースを持参した。 セッティング終了後、着替えを済ませ、まだ人のいないレストランの司会席に立った。 マイク合わせはもう終わっている。 マイクのスイッチを入れ、ちょっと練習。 声の準備も万端だった。 司会席の向かいの壁は鏡張りになっていて、私の姿を映し出していた。 黒の、少し大きめに胸元の開いたワンピースにショートカット。 首にアクセントが必要だったかな・・・。 その時、
「胸元ちょっと寂しいね。」
私の背後から鏡をのぞきこんでいた月川は、私の気持ちを代弁してくれた。 そして次の瞬間、背中から胸元にふわっという風と感触が舞い降りた。 鏡に映った私の胸元には、金色の小さな馬の蹄鉄のネックレスが光っていた。
「馬の蹄鉄ってね、つけてる人を守ってくれるんだって。 知ってた?」
私の首にネックレスを付けてくれた月川のその手は、そっと私の両肩に触れ、鏡に映った月川の優しい瞳が私のちょっと不安げな視線と絡み合った。
「よし、お客さん入れるよ。 綾乃ちゃん、一杯楽しんでおいで。 後ろで見守ってるから。」
この頃、月川が呼ぶ私の名前は、“谷口さん”から“綾乃ちゃん”に代わっていた。
私は、ネックレスをギュッと握り締めた。 自然と緊張がほぐれ、司会者の顔になる。 やっぱり花束贈呈の時はもらい泣きしそうになったけれど、でも、楽しかった。
「お疲れ様。 すごく良かったね。」
宴の余韻に浸っていた私を目覚めさせたのは、月川の低いテノールのような声だった。
月川の声を聞き、緊張から解き放たれた私は、後ろの椅子に座り込んだ。
「なんか、緊張が取れたら、急に力が抜けました。 私、変なとこありませんでしたか?」
「全然問題なかったよ。 とっても良くできました。」
そう言って、月川はまた私の頭を撫でた。
「月川さんの手って、魔法の手みたい。」
「ん? どうして?」
「だって、月川さんに頭を撫でられると、すごくほっとするから。」
そう言ってしまって、私は、自分が赤面しているような気がした。
恥ずかしさを隠すように、私は首に手を掛け、ネックレスを外そうとした。 すると月川は言った、
「そのネックレス、綾乃ちゃんにあげるよ。 初司会祝い。」
「でも、こんな高価なもの・・・。」
私の言葉を聞き終わる前に、月川は片付けを始めた。
「さ、軽く片づけして戻るから、着替えておいで。」
心なしか、月川の頬も赤くなっているような気がした。
この時以来、月川からもらったネックレスはずっと私の胸元で優しい光を放っていた。 そう、今日、このネックレスを外す前までは・・・。
月川との出会いは私が東京の大学に進み、アルバイトを始めたばかりの1980年代だった。 田舎の高校から、憧れていた東京の大学に入った。 同時に合格していた地元の大学に行けという両親の反対を押し切って上京した私は、公務員の父一人の給料から学費、生活費を仕送りしてもらうには少々心が痛んだ。 家庭教師や喫茶店のアルバイトには全く魅力を感じなかった。 とあるアルバイト情報誌で見つけたのが、ケイエス・プランニングという会社だった。 ウエディングからファッションショー、移動遊園地まで、幅広くこなすこの会社は元演劇部の私にとっては格好の働き場所だった。そこで私はアシスタントという肩書きの、イベントプランニングの見習い兼雑用の仕事をもらった。 正規のプランナーは4人、月川は実際のイベントで現場を仕切る監督だった。 現場でのアシスタントは自給が少し高かったせいで、私は現場の仕事も好んで引き受けた。 ・・・と言っても、客の整理とか、お弁当の配布、機材の搬入・撤去の手伝い等、本当に雑用が多かったけれど。 この現場好き(?)が功を奏して、私は月川と現場に出ることが多かった。
現場第一回目の仕事は、横浜市内での結婚式だった。 お洒落なレストランを貸切で、音響・照明を搬入し、白と黄色を基調としたデコレーションを組み立て、ウエディングケーキも白地に黄色のお菓子のバラが溢れていた。 月川はインカムを使って私達アルバイトに指示を出し、同じく会社から派遣された司会の女性とともに結婚式を進行させて行く。 教会で式を挙げた後、“今日一日はずっと純白のウエディングドレスを着ていたい”という新婦の意向で、お色直しに時間を費やす必要のない披露宴は、とてもスムーズに進んで行った。
私、谷口綾乃は、まだ19歳。 まだ、結婚願望が薄れてはいない、普通の年頃の女の子だった。 披露宴の最後に花束贈呈で涙ぐむ新婦とその両親を見ながら、いつかそう遠くない未来に訪れるかもしれない自分の結婚式を想像していた。 海の見える教会で、春の風を感じながら行われる結婚式。 シンプルな白いドレスに、胡蝶蘭のブーケ、隣で微笑む愛する人、両親や友達。 私もお色直しは要らないな。 一生に一度の幸せな旅立ちの日には、できるだけ長くウエディングドレスを身にまとっていたい。 披露宴では、必ず双方の両親を末席ではなく貴賓席に・・・だって、一番感謝して、一番私の幸せな姿を見せてあげたいのは両親だもん。
「谷口さん、お疲れ様。 機材の撤去は明日だから、軽く片付けをしたら帰ろう。 都内まで送ります。」 心地よい夢の中に入ってきたのは月川だった。 既に披露宴は終わり、新郎新婦はレストランの出口で来賓を見送っていた。 2次会に出席する司会の女性を残して、私は月川と会社の車で、都内の本社に向かった。
「初めての現場はどうでした?」
運転しながら月川が話しかけてきた。 運転中は、居眠り運転防止のためにできるだけ話しをして欲しいと、行きの車の中で言われていた。
「楽しかったです。 結婚式って、いつ見ても良いですね。 最後は私もつられて泣きそうでした。」
「そう・・・。」
月川の疲れた顔が一瞬曇ったような気がした。
「結婚式の現場は、僕はあまり気が進まないんだ。」
数秒の沈黙の後、月川は続けた。
「実は去年、6年間付き合っていたフィアンセと別れたんです。 結婚式の2週間前に。」
私は、月川の突然の告白に、返す言葉を失っていた。
「あ、気にしないで、会社の人たちは皆知っているから。結婚式の招待状は会社の人たち皆に配ってあったからね。」
「大変でしたね。」
私はそう言うのが精一杯だった。結婚式直前の婚約解消なんて、漫画か小説の世界だけの話だと思っていた。 黙っている私に、月川はさらに話し続けた。
「僕は彼女の実家で既に一緒に暮らしていたから、引越しとか色々大変でね、時間はあっという間に過ぎてくれたお陰で、今はなんとか落ち着いたという感じかな。」
月川は婚約解消後、フィアンセの実家を出て、結婚後に一緒に暮らすはずだった、近くのマンションに引っ越したこと、半年過ぎた今でも、まだ、傷が癒えてはいないこと、そして、結婚式の現場はできれば避けたかったこと等を私に話した。 どうして突然、初対面の私にそんな大変な自分の過去を話したのか・・・、話してくれたのか・・・、その時はどうしても月川が理解できなかった。 月川はまっすぐ前を向いて運転を続けていた。 寂しげな、心なしか潤んでみえた月川の眼差しの横顔が、この時、私の瞳に焼きついた。
現場第一回目の仕事は、横浜市内での結婚式だった。 お洒落なレストランを貸切で、音響・照明を搬入し、白と黄色を基調としたデコレーションを組み立て、ウエディングケーキも白地に黄色のお菓子のバラが溢れていた。 月川はインカムを使って私達アルバイトに指示を出し、同じく会社から派遣された司会の女性とともに結婚式を進行させて行く。 教会で式を挙げた後、“今日一日はずっと純白のウエディングドレスを着ていたい”という新婦の意向で、お色直しに時間を費やす必要のない披露宴は、とてもスムーズに進んで行った。
私、谷口綾乃は、まだ19歳。 まだ、結婚願望が薄れてはいない、普通の年頃の女の子だった。 披露宴の最後に花束贈呈で涙ぐむ新婦とその両親を見ながら、いつかそう遠くない未来に訪れるかもしれない自分の結婚式を想像していた。 海の見える教会で、春の風を感じながら行われる結婚式。 シンプルな白いドレスに、胡蝶蘭のブーケ、隣で微笑む愛する人、両親や友達。 私もお色直しは要らないな。 一生に一度の幸せな旅立ちの日には、できるだけ長くウエディングドレスを身にまとっていたい。 披露宴では、必ず双方の両親を末席ではなく貴賓席に・・・だって、一番感謝して、一番私の幸せな姿を見せてあげたいのは両親だもん。
「谷口さん、お疲れ様。 機材の撤去は明日だから、軽く片付けをしたら帰ろう。 都内まで送ります。」 心地よい夢の中に入ってきたのは月川だった。 既に披露宴は終わり、新郎新婦はレストランの出口で来賓を見送っていた。 2次会に出席する司会の女性を残して、私は月川と会社の車で、都内の本社に向かった。
「初めての現場はどうでした?」
運転しながら月川が話しかけてきた。 運転中は、居眠り運転防止のためにできるだけ話しをして欲しいと、行きの車の中で言われていた。
「楽しかったです。 結婚式って、いつ見ても良いですね。 最後は私もつられて泣きそうでした。」
「そう・・・。」
月川の疲れた顔が一瞬曇ったような気がした。
「結婚式の現場は、僕はあまり気が進まないんだ。」
数秒の沈黙の後、月川は続けた。
「実は去年、6年間付き合っていたフィアンセと別れたんです。 結婚式の2週間前に。」
私は、月川の突然の告白に、返す言葉を失っていた。
「あ、気にしないで、会社の人たちは皆知っているから。結婚式の招待状は会社の人たち皆に配ってあったからね。」
「大変でしたね。」
私はそう言うのが精一杯だった。結婚式直前の婚約解消なんて、漫画か小説の世界だけの話だと思っていた。 黙っている私に、月川はさらに話し続けた。
「僕は彼女の実家で既に一緒に暮らしていたから、引越しとか色々大変でね、時間はあっという間に過ぎてくれたお陰で、今はなんとか落ち着いたという感じかな。」
月川は婚約解消後、フィアンセの実家を出て、結婚後に一緒に暮らすはずだった、近くのマンションに引っ越したこと、半年過ぎた今でも、まだ、傷が癒えてはいないこと、そして、結婚式の現場はできれば避けたかったこと等を私に話した。 どうして突然、初対面の私にそんな大変な自分の過去を話したのか・・・、話してくれたのか・・・、その時はどうしても月川が理解できなかった。 月川はまっすぐ前を向いて運転を続けていた。 寂しげな、心なしか潤んでみえた月川の眼差しの横顔が、この時、私の瞳に焼きついた。


