蒼いクリスマスツリー
連載: 恋愛小説です
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10 クリスマスの告白
「メリークリスマス!!!」
乾杯の音頭を取る桑田専務は、きっとここへ来る前にすでに一杯、いや、数杯は引っ掛けてきたのだろう、かなりご機嫌だった。 自分の奥さんがやはり司会で駆り出された勝田も、夫婦で打ち上げに参加していた。 
「いやぁ、今年のクリスマスは忙しかった。 でも、大成功だった。 みんな、どうもありがとう。」
桑田専務は酔って呂律がまわらない様子だったが、社員、アルバイト一人一人にこう言って廻った。
私は・・・といえば、まだ昨晩の余韻から覚めてはいなかった。 夕べ、アパートに帰ってから、あれこれ考え、しばらく眠りにつけなかった。 幸い、1日の仕事の疲れが、私を眠りへいざなってくれたものの、 朝目を覚まして、昨夜の記憶がまざまざとよみがえってきた。 司会の仕事は・・・何とか大丈夫だった。 しかし、こうしてまた打ち上げ会場で月川の横に立つと、自分の頬が赤くなっていないか、とても心配になった。
参加していた面々がかなり酔っ払ってきているのを見ながら、私はワイン2杯で程よく酔っ払った体を会場の隅の椅子に持たせかけていた。 月川は今日も全く飲まず、皆の話の輪の中で笑っていた。 そんな月川を微笑みながら見つめていると、勝田の妻、翔子が話しかけてきた。
「お疲れ様。 疲れたでしょう、最後まで付き合う必要ないから帰って休んでもいいのよ。」
翔子は自分の夫が酔っ払って大笑いしている姿をみながら続けた。
「今夜は、俺が飲むから、お前は運転手だって、全くうちの亭主にも困ったもんね。 綾乃ちゃんは? 月川君に送ってもらうの?」
「あ、いえ、私は・・・。」
動揺する私をよそに、翔子は月川の元へさっさと歩き出した。 翔子は月川に軽く耳打ちすると、私に向かって手を振り、自分の夫、勝田の隣に腰を下ろし、話の輪に加わった。 そして、私は・・・・といえば、翔子に何か言われて、すぐに私の方へ歩み寄ってきた月川の姿にまたしてもドギマギしていた。
「そろそろ帰ろうか。送っていくから。 今日は品川までっていうわけにはいかないよ。 だって、ほら。」
月川が指差した先には、既に1時を廻っている時計があった。
私は、「すみません。」と月川に謝り、有難く月川の好意に甘えることにした・・・というか、そうするしかなかった。 今夜は目白までのドライブ。 月川は今回の現場の話や、今後の予定などを話した。 そして、もうあと少しで私のアパートに着くというところで、私たちは、目白にある高級ホテル、椿山荘の庭を彩る光のイルミネーションに目を奪われた。
「綺麗・・・。 ここでこんなことやっているなんて、知らなかった。 大学から目と鼻の先なのに。」
「ちょっと見て行こうか。」
月川はホテルのゲートの傍にあるゲストパーキングに車を止め、外へ出た。 私も月川に続いた。 外は凍りつくような寒さだったが 赤や青など様々な色のライトがクリスマスツリーの前に立つ私と月川に少しばかりの暖かさを与えてくれていた。 月川は、
「帰省するのは30日だったっけ?」
と話しかけてきた。
「はい。1月4日までお休みをいただきますね。」
私が答えると、月川は私のほうへ振り向き、
「1月4日に僕も福島へ行くよ。」
と言った。 えっ? という表情をしている私を見下ろしながら、月川は続けた。
「僕は、女性とただ付き合うことはできないんだ。 女性を好きになったら、その女性とずっと、一生一緒にいたいと思う。 でも、そんなぼくの気持ちは、女性には重いと思われるって勝田さんには言われたけど、こればかりは、どうしようもない。 性格なのかな。 だから、きちんとけじめをつけてお付き合いをしたいと思ってる。」
私は黙って月川の話を聞いていた。 以前、勝田が月川の恋愛に対する考え方を私に言ったことがあった。 今夜の月川はまさに、勝田から聞いた月川そのものだった。
「綾乃、僕は君が好きだよ。」
ちょっとの沈黙のあと、月川は私のほうを向き、大きく深呼吸してこう言った。
「多分、君と初めて会った時から、僕は君に何かを感じていたんだと思う。 だから、初対面の君に僕の過去をいきなり話してしまったんだと思う。 あの頃、僕は半年以上も前の別れにこだわっていたんだ。 本当に辛かったから、もうしばらく誰も好きにならないと思ってた。 でも、僕が君に夏休みのアルバイトを頼んだ日、僕は、君に僕の傍にいて欲しいと思った。 もし君の返事がイエスだったら、もしかしたら、僕自身が変われるかもしれないと思った。」
月川は私から一度も視線を外さず、こう言った。 言い終わると、またクリスマスツリーの方を向き、話を続けた。
「不思議だよね、去年のクリスマスはツリーなんて綺麗だと思わなかったのに。」
「初日のクリスマスコンサートの後、実は勝田さん、翔子さんを迎えに来ててね。 クリスマスは1年に1回しかないんだぞって言われたよ。 石橋をたたき過ぎて渡れなくしてしまうのはA型の僕の悪いところだって。 一度くらいたたく前に思い切って渡ってみろ、もう30なんだからって。 ひどいよね、30歳までまだ1年半あるのに。 でも・・・、やっぱり今回も勝田さんに背中おされちゃった。」
私はぼんやり月川の話しを聞いていた。 そして、気がつくと、いつの間にか、私は自分の手を月川のポケットに滑り込ませていた。 ポケットの中で暖められていた月川の手が、冷たくなった私の手を握り締めた。 月川の大きな、暖かい手は、私の冷え切った体をゆっくりと温めてくれた。
「これからもずっと僕の傍にいて欲しい。 僕は綾乃をずっと大切にするから。」
月川と知り合って既に半年以上。 そして月川を好きになって数ヶ月、ずっと私が待ちわびていた言葉だった。
声が出なかった。 「はい。」と声に出して言いたかったのに、この時はただ黙って頷くしかできなかった。 ただ幸せだった。 今、この瞬間が、ずっとこのまま二人を包み込んでいて欲しいと思った。
月川は、繋いでいない右手で、頬を伝う私の涙をそっと拭った。 月川との2度目のキスのあと、月川の腕はしっかりと私を抱きしめた。 私達の抱擁を目の前の蒼を基調としたクリスマスツリーが見守っていた。
9 続・クリスマス
クリスマス・イブのディナーショーは無事に終わった。 片付けを済ませ、轟社長と桑田専務からの食事の誘いを丁重に断り、私は帰宅の途についた。 時間はすでに10時半をまわっていた。 途中、ディナーショーで来た高級なドレスを朝一番のクリーニングに出すために横浜支店へ立ち寄った。 朝一番にクリーニングに出せば、超特急で明日の午後のディナーショーに間に合うように仕上げてくれる。 横浜支店は真っ暗だった。 既に、支店の鍵を持たされていた私は、中に入り、クリーニング用のケースに衣装を入れると、少しの間、月川の席に腰を下ろした。 頭を机につけて目をつぶると、月川の臭いがしたような気がした。 重なっている書類の月川の字をなぞりながら、
「寒くて風邪ひいてないかな・・・。」
とつぶやいた。 
自分も帰ろうと思って、月川の椅子から立ち上がった時、バタンとドアが開き、月川が白い息を吐きながら入ってきた。 私は一瞬目を疑った。 時計の針は11時25分をさしていた。 
「やっぱり、綾乃ちゃんだった。」
「月川さん、どうしたんですか? もう現場終わって直帰だと・・・。」
あまりの驚きに、私は話しかける言葉が見つからなかった。
「綾乃ちゃんのことだから、きっと衣装を置きに来るだろうと思って、戻ってきた。」
私の沈黙をよそに、月川は続けた。
「食事した? あ、現場で夕食でたよね。 今、帰るところだったの?」
「はい・・・。」
「そう、じゃ、帰ろうか、明日も現場だし。」
私は月川と一緒にオフィスを出た。 月川の車がオフィスの前の路上に止まっていた。 メタリックシルバーの日産スカイライン。 以前、いい年なのに、若い車に乗っていると桑田専務が話していた。 やはり、月川は一度家に戻って、車で出直してきたのだ。 でも、なぜ? 何かオフィスに急用があったのだろうか? それにしては、何もせずにこれからただ帰るだけだ。 それとも、どこか他に寄った帰りだったのか? あれこれ考えていた私に月川が言った。
「乗って。 送るから。」
「はっ?」
すっとんきょうな声を出してしまったと気づいたときは既に遅かった。
「そんな、いいですよ。 月川さん横浜なのに、わざわざ目白なんて・・・。 明日も仕事なのに・・・。」
「大丈夫、大丈夫。 この時間だから、道はすいてるよ。」
大丈夫なわけは無かった。 いつも居眠り防止のために私とずっと会話を続けるくせに、私を送った帰り道、月川はどうやって眠気と戦うのだろう。 それでなくても、一度現場に出たら、月川は仕事に100%集中する。 仕事の直後はかなりの疲労がたまっているはずだった。 でも、今夜の月川はどうしても譲らなかった。 結局、品川駅までということで、私は月川の車の助手席に乗った。 品川駅なら、乗り換えをせずに目白まで帰れる。

途中、多摩川を渡るところで、クリスマス・イブから、クリスマスに日付が変わった。 
「メリークリスマス。」
月川は多摩川の橋の手前で車を止め、こう言った。
「あ、メリークリスマス。」
私も月川に返した。
私の目を見て、優しく微笑んでいた月川の顔がゆっくりと私に近づき、月川の唇が私の唇に触れた。 何が起こったのか、数秒間は分からなかった。 ようやく、状況を把握した私は静かに目を閉じ、月川の唇のぬくもりを感じた。 寒さで少し紫がかった月川の唇は、意外に柔らかく、ほのかに匂う月川愛用のコロンの香りが私を包んだ。
それから多摩川を渡り、品川駅に着くまでの間、月川とどんな会話を交わしたか、あまり記憶がない。 きっと二人とも、黙っていたのだろう。 突然のキスに私は完璧に舞い上がっていた。 ファーストキスだった・・・。 でも、当然、ファーストキスを突然奪われてしまったという感覚はなかった。 むしろ、月川が相手で嬉しかった。 静かに座っている私の心臓は今にも破裂しそうなくらいドキドキ鼓動していた。
月川の車が品川駅のロータリーで止まった。 しばらくの沈黙の後、私は
「ありがとうございました。」
とあわてて月川に告げ、ドアを開けようとした。 恥ずかしさで月川の顔をまともに見られなかった。
「綾乃。」
月川が私の手をそっとつかんだ。 横浜から品川までのほんの数十分のドライブで起こった出来事に私の頭は混乱していた。 そのせいなのか、このとき月川が初めて私を“綾乃ちゃん”ではなく、“綾乃”と呼んだことに私は後になるまで気がつかなかった。
「明日、現場が終わった後、クリスマスシーズン終了の打ち上げがあるから、横浜支店に戻ってきてね。 家族と恋人持ち以外は全員集合って、バツイチの桑田さんが言ってたから。 じゃ、気をつけて。 明日もがんばってね。」
私はゆっくり月川の車を降り、改札口へと歩いた。 私が改札を通るまで、月川は車を発車させず、ずっと私を見守っていた。
8 序章 クリスマス
クリスマス。 あちこちで開かれるディナーショーやクリスマスの雰囲気は、時には新しいカップルを生み、世の男性にとっては格好のプロポーズの舞台。 そして、長年結婚生活を送ってきた夫婦にも昔の燃え上がるような恋愛や、今の幸せを格別なものにする魔力がある。
しかし、イベント会社で働く者たちにとっては、もう一つの戦場である。 
クリスマス・イブを目前にしたケイエス・プランニングでは、新宿の本社も横浜支店も、鬼のような忙しさに見舞われていた。 クリスマス・イブとクリスマスに行われる、数々のイベントの打ち合わせ、人員の配置、予算の確認等など、社員もアルバイトも総出で夜中まで仕事をしていた。 
冬休みに入った私は、年末ぎりぎりまで東京に残ることにしており、それまでは、いつも通り月川のアシスタントに奔走していた。 私にとって既に悲しいニュースは数日前に桑田専務によってもたらされた。 
「谷口、イブとクリスマスは横浜プリンスで俺のアシスタント兼ディナーショーの司会な。 轟社長直々の指名だ。 人手不足につき、俺は現場監督にまわるから、頼むぞ。」
轟社長は、小さなイベント会社を経営する一人社長。 以前パリコレがらみのちょっと有名なファッションショーの司会を務めた時、たまたま隣の会場でやっていたアンパンマンショーの司会が体調不良を訴えた。 全く別の会社が仕切っていたが、ファッションショーを覗きに来ていた轟社長は私に代役を頼んできた。 その場にいた月川が桑田専務に了解をとり、私の初めてのアンパンマンショーの司会が実現したのである。 ショーは楽しかった。 いきなり、轟社長が持ってきた、子供ショーの司会のお姉さん用のコスチュームと帽子を見たときはびっくりしたが、子供達との劇中のやり取りは面白かった。 
「やぁ、どうもありがとう。 本当にありがとう。 いざとなったら俺が司会で出ていくしかないと思ってたんだ。 いやぁ、本当に助かった。 君たちにも、桑田専務にも大きな借りができちまったなぁ。」
轟社長はそう言って、見事に禿げ上がった頭を撫でながら笑った。 ショーのあと、私と月川は轟社長に連れられ、月川曰く、“横浜中華街で一番高い中華飯店”で、おなか一杯ご馳走になった。 それ以来、轟社長は折に触れて私を司会や現場監督として指名してくれる。 今回、もしかしたら月川と一緒に現場でイブを過ごせるかもしれないという私のほのかな願いはこうして轟社長と桑田専務によって、見事に打ち砕かれた。
月川は、横浜プリンスからほど近い、野外会場でのクリスマスコンサートを手がけていた。 野外の会場にクリスマスツリーや本物の雪だるまなどを持ち込んで、フェリス女学院と横浜キリスト教教会の聖歌隊によるコンサート。 横浜のこの界隈では毎年行われており、最近では東京や、関東近辺からもこのコンサートを聴こうと人が集まってくるようになっていた。
「寒いとこ苦手なんだよね。 ホッカイロ沢山貼り付けていかないと・・・。」
月川は防寒準備に余念がなかった。

タクシーは多摩川を超え、今、まさに川崎市に入ろうとしていた。 橋の上を高速で通り過ぎるタクシーは激しい横風を受けた。 運転手は少しスピードをおとした。 神奈川と東京を結ぶ橋。 横浜に住む月川と、東京都内に住む私を結んでくれていた橋。 これまで、何度、二人でこの橋を渡っただろう。 まだ、私が月川に淡い恋心を抱いていた頃は、朝、この橋を電車で渡っていくだけで胸がときめき、そして、夜、月川と別れて東京に向かうときには、なんともいえない寂しさを感じた。 そして、月川を心から愛し、月川に愛される喜びを知ってからは、多摩川のゆっくりとした流れとともに、この橋は黙って私たちの行く末を見守ってくれていた。
そして、今日、今夜、この川はこの橋はどんな思いで一人タクシーに乗っている私を見ているのだろう? 暗闇に隠れた多摩川の流れは、月川のいる病院へ急ぐタクシーのエンジン音にそのせせらぎの音をかき消されてしまっていた。
7 月川の過去
ドアが開くと私は一目散に改札へ駆け上がり、タクシー乗り場まで走り続けた。 普段は良く迷う駅の構内。 でも、この時は誰かが私のために道をあけ、道案内をしてくれているかのように、あっという間にタクシー乗り場までたどり着いた。 タクシーに乗り込むと、
「川崎市民病院まで。 ちょっと遠いんですけど、すみません、急いでください。 お願いします。」
「高速使いますね。」
運転手は私の動揺ぶりが尋常ではないと思ったのだろう、こう言うと、即座に車を発進させた。
東京の夜にしては珍しく、道はさほど混んではいなかった。 きっと、電車で東京駅まで行き、乗り継ぎをして、さらに川崎駅からタクシーを使うことを考えれば、よっぽど早い選択だった。 それに、すでに私の気力は限界に達し、体力の消耗を始めていた。 疲れていく体とは反対に、心臓の鼓動はさらに激しさを増し、私の体には誰が見ても分かる震えが来ていた。
「お客さん、お水いかがですか? さっきコンビニで買ったばかりですから、どうぞ。」
バックミラー越しに運転手が小さな水のペットボトルを差し出した。 普段、知らない人から口に入れるものをもらわない私も、自分の口がどれほど渇いているかこの時初めて感じ、運転手の好意に甘え、水を一口、口に含んだ。
「すみません・・・。」
そう言って、うつろな目で車窓を見る私に、運転手は一言、
「急ぎますね。」
と言い、アクセルを踏んだ。

タクシーは湾岸道路を順調に走っていた。 月川の運転で何度も走った道。 そして、あの勝田が珍しく真剣な声で、
「今、月川は自分の過去から必死で抜け出そうとしてるんだ。 もう少し、待っててやれよ。」
と私にこう言った道路でもあった。
私の月川への気持ちが、仕事場での良いパートナー以上のものであることに、勝田は早くから気づいていた。 そして、月川の気持ちが私へ向き初めていることに気づいたのも勝田だった。 勝田は婚約解消という事実から立ち直ろうとしている月川を見守り続け、そして、私との新たな出発を応援しようとしてくれていた。
勝田は昔から家族ぐるみで月川や元婚約者の里美とつきあっていた。 
「月川は女に対してすごく誠実な男だよ。 皆、ふざけて変態呼ばわりしているけど、あいつは物凄く真剣に女を好きになるんだ。 でも、時々、その真剣さは女にとって重荷になったりもする。 少し、肩の力を抜けって、よくあいつに言ったもんだ。」 
勝田は、月川が里美と別れる前に、里美の胸の内を聞かされていたそうだ。 あまりにも真剣で強い愛情を里美に降り注ぐ月川に、里美はなぜか幸せではなく不安を感じたという。 大学時代に月川と知り合い、恋に落ち、数年は真剣に愛し合っていた。 しかし、実際一緒に暮らし始めて、里美にとって月川は空気のような存在になり、愛が情に変わっていった。 里美が月川に対して情を感じ始めたとき、里美はちょうど高校教師として新しい出発をしたばかりだった。 仕事は忙しく、同僚教師と教育に関するディスカッションをしながら夕食をとり、飲んで帰ることもあった。 しかし、勿論、里美の心には月川がいた。 どんなに忙しくても、家では月川との空気が触れ合うような穏やかな時間を共有したかった。 しかし、月川にとって里美はまだ恋愛の対象だった。 疲れて帰った里美を激しく求めることもあったという。特に男性の同僚と一緒の時など、月川はいつにも増して里美を強く求めた。
「もっと私を信じて欲しかった・・・。里美はこう俺に言ったよ。 きっと、月川は今でもこの言葉の本当の意味は分からないだろうな。 里美は月川との恋愛を通り越して、情につつまれた安らぎを求めていたんだ。 外では一生懸命働いている自分を信じて待ってて欲しかったんだ。 でも、月川は激しく女としての里美を求めた。 そして月川の真剣さは嫉妬を生んで、その嫉妬は束縛に変わった。」
里美は月川の激しすぎる愛情に疲れ始めていた。 結婚して、子供が出来て、家庭を作ると言うことは、“愛してる”ということだけでは乗り越えられないことも起きてくる。 そのことに里美は月川より先に気づいた。 そして、月川とこれから先ずっと“生活”をしていくことに不安を感じたのだという。
「里美も、月川のことが嫌いになったわけじゃなかったからな。 すごく悩んでた。 でも・・・、残念な結末だ。里美の方が月川より先に大人になってしまったんだな。」
男女が結婚を決めるとき、理由は様々ある。 そして、別れを決めるときも・・・。 愛しているが故に自分を信じて欲しかった里美と、愛してるから里美の全てを自分の腕の中においておきたかった月川。 そしてこの月川の愛情は、きっと里美には束縛として写ったのだろう。 里美は束縛と言う名の月川の愛情に耐え切れなかった・・・。 まだ20歳の私には里美の気持ちはこの時勿論理解できなかった。 勝田の話を聞きながら、私はただ月川に逢いたかった。

私はこの勝田とのやり取りを月川には話さなかった。 実は、勝田は月川とも私のいない場所で私の話をしていたらしい。 月川は後に、私にこう言った。
「勝田さんはいつも僕の背中を押してくれる。 別に、無理やりじゃないんだけどね、勝田さんと話しをした後は、気がつくといつも僕は前に進んでるんだ。」
そして、その日は突然やってきた。
6. 想い出のレストラン
     9月、一浪して大学に入った私は、20歳を迎えた。 実は、高校の修学旅行で友達とこっそり晩酌をしていたから、酒は飲めないわけではなかったが、堂々と隠れずに酒を飲める歳になった。
「綾乃ちゃん、昨日誕生日だったんだね。」
土・日に休めないイベント関係の社員は、通常、ウイークデーに休みをとる。 月川は毎週火曜日に休みを取っていた。 水曜日の午後、大学の授業を終えて横浜の支店に行った私に月川が話しかけてきた。
「ああ、はい。」
「ごめんね、昨日、忙しくて電話できなかった。」
月川は今度の火曜日は自分の母親を病院に連れて行くために朝から千葉の実家に行くと言っていた。
「良いんです、別に。 それより、お母さん大丈夫でしたか?」
「ああ、昨日のは月に一回の薬をもらいに行く日でね。 父が用事で出かけなきゃなかったから、僕が代行だったんだ。 得にどうということじゃなくて、年を取ると、血圧が高くなったりするからね。」
月川の母親の話に話題を変えたものの、私は月川が私の誕生日を知っていたことが嬉しかった。
「今日、仕事終わったら、駅前で食事でもしよう。 お祝いにご馳走するよ。」
「そんな、気を使わないでください。」
「いいのいいの、僕も何かおいしいものが食べたい気分だから。」
     その日の夜、私は月川に連れられて、横浜駅からほど近い、小さな民家でやっているイタリア料理の店で食事をした。 
「月川さん、久しぶりですね。 去年の6月以来じゃないですか? あれきり顔を見ないので心配していたんですよ。 お元気でしたか?」
店に入ると、オーナーらしき白髪の女性が月川に話しかけてきた。
「ご無沙汰していてすみません。 色々ごたごたしてたもので。 話は聞いていると思いますが・・・。」
「この間、里美さんから伺いました。大変でしたね。」
「里美、来たんですか?」
「ええ、同僚の先生のお誕生日に、他の先生方と数人で。」
「そうですか、元気でやっているんですね。」
月川とこの女性が誰の話をしているのか、私にはすぐに分かった。 里美というのは月川の元婚約者だったのだろう。 そして二人はこの店が好きで、昔は良く一緒に来ていたのだろう。
月川は、二人の話を静かに聞いていた私を、この女性に紹介してくれた。 
     もう、70歳近くになるのだろうか、この白髪の女性は遅れて厨房から出てきた男性、きっとこの女性の旦那さんで、この店のシェフだろう、この男性とともに、私に挨拶をした。
このレストランは月川が横浜に引っ越してきて偶然見つけてから十数年来の、月川にとって“隠れ家”のような存在だと言った。
「月川さんがここに連れていらっしゃるなんて、あなたはとても特別な方なのね。 お目にかかれて嬉しいわ。 ゆっくりなさってくださいね。」
穏やかなソプラノの声でこう言うと、この女性は新たに店に入ってきたカップルの方へと歩いて行った。
“特別な方・・・”という言葉の余韻を残しながら、私の誕生日のディナーは始まった。
「ごめんね、僕は車だからお酒は飲めないけど、綾乃ちゃんはワインでも飲むかい?」
「えっ、月川さんは全くお酒が飲めないと聞きましたけど?」
「ああ、あんまり強くはないよ。 よほどのことが無いと飲みたいと思わないしね。 でも、ワイン一杯くらいは大丈夫。 会社の連中と飲みに行くと皆酒豪だから、なかなか帰してもらえないでしょ? かえって飲めないことにしておくと終電に間に合うように帰れるしね。」
月川は茶目っ気たっぷりに、飲み会でのからくりを話した。
     昨日は、アパートで迎えた一人きりの誕生日だった。 でも、今日は、一日遅れの幸せ一杯の夜だった。 これまで何度か、オフィスの傍の定食屋で月川と食事をしたことはあったが、今回のシチュエーションは格別だった。 実際、緊張していて、あの時のパスタの味はあまり覚えていない。 でも、このイタリアンレストランは私のお気に入りになり、後に月川と私にとって多くの節目の舞台となった。 そして・・・私が唯一声を出して泣くことのできる場所となった。

快速電車は時間通り上野駅へと滑り込んだ。 
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